父親はいつでも滑稽でない程度の親バカで、私を愛していたように記憶しております。
父親が病気をしてから私が父親を看病をしてもそれは決して私の手を煩わすこともなくて、細腕の母親が朝から晩まで働きながら父親の気を紛らわし、それでありながら自らを美しく保ち、右往左往で立ち回っていたように見えました。
それでも母親は周りから、
「もっとやれるはず。」と咎められることが屡々だったのも、私は知らなかったとは言えません。
東京から病気の父親と、か細い母親、まだ大人になっていない妹を残し、私は引け腰よろしくこの遠い土地へ越してしばらくして父親を無くしましたが、その間に一度とて、
「年老いてゆく我々の世話はどうする気だ。」 などと主人に詰問する場面もなかったと聞いております。
昨年の10月に父親が彼の級友を引き連れて沖縄にいる私ら夫婦に会いに来ると行き勇んでおりました。
が、羽田空港までなんとかたどり着くやいなや、内蔵出血からくるひどい貧血で喀血し、にっちもさっちもゆかなくなり、当日午前にて沖縄行きを断念してそのまま有明の癌センター急病棟に入ったことがありました。
父親は来られなかったのか、とうとう死ぬのかな、と落胆するふりに従事していた私でしたが、父親の10月の予定渡航は私の誕生日の間近でありました。
私の体たらくを見ぬいて、母親が見繕った作りのよい上質な柔らかい皮を黒に染めたブランド入りの、小さく使い勝手のよい鞄を父親に託していた様で、
倒れてから1日経って父親とやっと電話を交わした時に、父親は、
「しまった。君への黒い皮の鞄渡しそびれた。」と言いましました。ので、私はそれを「ははは、」と笑い、そのうち取りにゆくさ、となるべく馬鹿みたいに答えました。
父親の誕生日は、私のそれの明くる日なのですが、どうしたものだか、その時の私には、もう二度と父親の足が立つことが無いのが解らず、アーミー使用の耳当てのついた丈夫な帽子を父親にプレゼントしてしまいました。
「ありがとう、ありがとう。」と言っていましたが、その時私は彼を直視しないでいたように思います。
昨年11月の台湾での仕事を終えて、すぐに父親のいる病室に行きましたが、父親は身体一つ小さくなってこそすれ、相変わらず
「やれ、あのブーツは素晴らしいんだよ。」
「やれ、日本はいつからこうなったのか。歴史を学べよ。」
「やれ、いついつの君の演奏はひどい。精進せよ。」
といつも通りの饒舌でした。
それから一度沖縄へ帰り、自分の体の疲れたのにばかり不平を言い、変わらぬ体たらくで過ごしておりました。
すると少しも間の空かないうちに、
「いよいよだ。」
と実家から連絡が入りました。
12月の頭に父親が実家へ一時帰宅するのに併せて帰京すると、先月までの憎まれ口はどこへ行ったか、骸骨にへばりついてやっと生きている様な父親は、ついぞ夢ばかり見ていました。
それから間もなく緩和ケアに入り、毎日見舞うと、朦朧とする意識の狭間で、
「君は天才だ。よくやった。」とばかり言うようになっていきました。
それは矢野家では有り得ないことで、何か私の華やかな仕事が決まる度に、
「なーんでまたアンタみたいのが‥」というような空気が常でしたし、私もそう思っていました。
だのに、父親はその時になって私を天才だと誉めそやし穏やかな顔をしました。
それから一週間くらい意識のほとんど無い日々が続き、ステロイドやモルヒネを使ってなんとかした様でした。
それから、ほんのある日からやたらに元気になり、一切を経口摂取していなかったあれそれを妙にやる気に飲食し始め、その元気が夜になっても治まらないとかで、夜のデイルームに連れ出し、いかにも普段通りに世の中を憂い、皮ジャンのいかに良いかを話し、今後来る混沌について砂嘴していると、橋の向こうの方で冬の花火が上がりました。
「やあ、良いものを観たなあ。こりゃ参った。来週も見られるのだろうか。」
と喜んでいました。
それが確か12月9日のことでしたから、5日後の小雨降る朝早くに父親は亡くなりました。
49歳でした。
正直申し上げますと、私は死に目になんて会いたくなかったわけです。
皆さんがどう思われるかは解りませんが、ともかく死に目になんて会いたくなかったのです。
望み叶って、間に合いませんでした。
父親に末期癌が解って丁度四年経っていましたから、私はこの来るXデーに、決して泣かないよう要調整してきたつもりでした。
心細い母親を支え、妹に気遣い、そんな長女で居るつもりでした。
最後のお湯に入れるときも、私はいつか父が言っていた
「どんな死んだふりでも、まつげをそろりとなぜると反応してしまって、ひとところにバレるもんなんだなコレが。」
というセリフを思い出し、執拗に父親の顔を撫で回しました。特に目元を。
ピクリともしない抜け殻を見て、
「この人は死んだのか。」
と理解しようとしました。
すると、今までの父の記憶が美化されて、現実味を奪い、私の脳は咄嗟に現実逃避を始めた様でした。
なるべく父の憎きを思い出そうとして、なるべく父の愚かさを思い出そうとして、泣くことを体一杯で拒否していたと記憶しています。
子どもを持てば少しは楽になるのでしょうか?
矢野沙織
