「碧雲荘」は当時は薬局で売っていたという類の薬による中毒でひっくり返った太宰治が療養から明けて最初の結婚をした時に一時住んだ場所として有名。
行く前は、当然この場所に所有者がいて私のようなにわか太宰ファンの来訪に困っているかも…とも思いましたが、まあ通行人の素振りでちらりと見るのは悪くはないかなと思い電車に。
荻窪駅の北口を出て、税務署を目指すといい、とどこかに書いてあったので、住宅街を抜ける道すがらそれらしい方々、例えば郵便屋さんや、ずっとこの辺りに住んでいるような風のお婆様に税務署を訪ねてゆきました。
お婆様に至っては税務署の先の碧雲荘へ行きたいのだと伝えると「あら、太宰さんはねえ。亡くなったのよ。もう住んでないわよ。」とおっしゃっていて、口ぶりからその頃がリアルタイムな様な新鮮さがあったのでその途端、随分若く見える方だなあと見当違いなことを考えました。
しばらく行くとどん突きに神社。
なんとなく参拝してから出口の門に目をやると
「急いでるときも、神社があるとなんか参ってみちゃうもんだよね」的なことがもっとちゃんとした言葉で、尚且つなぜだか七五調で書かれていてフフっとなりました。私も参ったしなあ、と。
そのほど、税務署を見つけ、隣のもう誰も住まわなくなった団地のような建物の敷地を過ぎて脇に入るとすぐにありました。碧雲荘。
閑静な住宅街に、古い古いと言いながらもきちんと出来る限りであろう手の入った建物。少し敷居の高さを感じる。
すると玄関部分に、
田中豊作建築の碧雲荘は80年ここに建っていて田中家は今も近所に住んでいる。ここは太宰治さんに部屋を貸したこともある、と言う内容の他に、移築希望者が連絡する為の電話番号も書かれたダンボール板が置かれていました。
私の中の現代の碧雲荘のイメージである、
すっかり観光地化して、なんなら太宰治に感化された多感な若者が破天荒部分のみ文豪の真似事などして多量に酒などを飲んであらぬ事寄りのノスタルジーに浸りつつ鬼のような頻度で変な詩的なツイッターなどしたりして明くる日に頭を抱える者共を横目に田中さんちは箒片手に甚だ迷惑している、の図が無くなりました。
とにかく田中さんがお書きになったと思われる手書きのお知らせには、今はどなたも住まわれていない事が前提としてあり、また、私が碧雲荘の移設に対して力になれるかは別として、現代の太宰ファンにもウエルカムさを感じたので、ひとつ敷地内にお邪魔して辺りを見回して写真を撮らせて頂きました。

いつかブログでも書いた通り(※『太宰治展』)私は小さな頃から新潮社から出ているいくつもの太宰作品を風呂の中でまで読んで、なんの藻屑とも分からなくなる頃に買い換える、と言うあまり品のない読み方で愛していたので、それゆえによっぽどのメジャー級でないと「このフレーズはこの作品のアレね。」と一発で分からないのです。
言ってしまえば、なんならあらすじにもさほど興味がなく、とにかくあの「僕は超素敵で物凄いかわいそうなんです」の、杞憂&絶望&杞憂。そして希望が見えたその瞬間にわざわざ暗部を探し出して諸行無常に伏せって泣きわめくフレーズの嵐を断片的に楽しむタイプの読者です。
だからおみくじ的に本をえいやと開いて、内容なんか関係なく彼の発する言葉に「ほほ〜…、また小さな草葉の陰にも絶望を感じているよ…」と感心を繰り返すのです。
どんなに可愛いらしげな安定しているような作品にも刹那を感じるのは私の性格なのか、まんまと太宰の手法にハマっている口なのか。
と、まあもっともらしい、つまりは好きだけどそんなに詳しいわけではい、という言い訳なのですが、今日のところは抜粋元を探す気分ではないので、思ったことだけを書きたいと思いました。
確か、あのどんなに暗い奴も思わず黙る「人間失格。生まれて御免。」の叩き台になった筋を書いたのは碧雲荘に住んでいた時期と一致するはず。
思い出して頂きたいのは、太宰治がここへ住んだのは、ものの一年弱でしかも新婚。
また、もしかしたらそれはフイクション作品かも知れないけれど、タバコ屋の超若い娘さんに超上から目線でメロメロになる話があったのでなんとなくその娘と結婚したような気が。
突っ込みどころ満載のなか、また何かの作品で、それまでは寝取られ上等だったのに、事後にしれっと空豆を剥いて主人である太宰に差し出した婦人に絶望した後だったかに、あの有名な
「アパートの便所の、金網の貼られた四角い窓から見えた富士山を忘れない」
という富嶽百景の恨み節は確かに碧雲荘の窓からのインスピレーションに違いないはず。
東南二階の〜、と書かれていた気もするのでそこも外から見て来た。
また、戦後に小さな幸せを手に入れたのに「薄氷を踏むような毎日」との描写も痺れる大好きなフレーズ。
当時の人気作家と言うのは、60年代のアメリカのロックスターの如しだったのでは、と私は思う。
人気作家の送り出すインテリで、しかも過激な文章はさながらリリックで、それに対して世間はああでもないこうでもない、と批評するのが流行りで。
向こう80年間と言う激動の時代に、今も変わらず荻窪に佇む碧雲荘は太宰治を含む何人もの若者を許してきたのだろうな、と思いました。
ちなみに、碧雲荘の樋面の土地は今は綺麗な更地になっていて、そこへ立っていた不動産屋さんがチラシを配っていて、周囲をウロウロしていた私にも家を建てませんか?とかなり熱い誘いを受けました。
そこに私が今時荻窪から富士山をも臨める東南向きのそびえる様な立派な家を建てても、なんなら今から田中家に連絡して碧雲荘を買い上げることが出来たとしても、もう二度と決して良いことばかりではなかったあの時代は戻ることはなく、
改めていつの時代も、その時をいずれもの方法でなんらかの形をもって残す作業というのは尊いことなのだな、と思いました。
例えばそれが、太宰治の様に生けることでさえも苦しくて堪らなかった人のどうしようもなく悲しくなる作業だとしても。
そして、行きの難しい道ではなく、少し大きな一本道を駅に向けて帰る途中で雨が降り出しました。
私にしてはかなり珍しく、家から傘を持って出掛けてきたことを大変に嬉しく思い、得意に傘をさして駅への道をも楽しみました。
矢野沙織